剣術の歴史と時代背景

平成という時代が終わり、元号が「令和」となって新しい時代がスタートします。

時代が変わると共に世の中は大きく変わって来た歴史がありますが、これから日本はどのような新時代を迎えていくのでしょうか。

そこで、元号や日本の歴史と剣術はどのような関わりを持って来たのか調べてみました。

遡ること紀元前50年の日本書紀には「自ら御諸山に登りて東に向きて, 八廻弄槍し、八廻撃刀す」と記述されています。これが剣術の記述の最古と言われています。古代は、大陸からの主な輸出品は剣で、刀鍛冶などの作刀技術が浸透して来たのが紀元7世紀、そして、朝廷によって各地に置かれたのは8世紀以降と言われています。

そして古墳時代中期になると、七人の神官が常陸国鹿島(茨城県南東部)にといった東国を中心に剣術が広めた、関東七流(東国七流)と呼ばれる流派が登場します。これが日本初の剣術流派の誕生になります。鹿島神宮、香取神宮は武の神として現代でも道場に祀られています。

香取神宮

平安時代にはいると、国内の製鉄技術は大幅に向上に大陸とも変わらないレベルに達しました。馬上での戦いにも適した形に進化しする過程で、形状も直刀から湾曲した湾刀に変遷を遂げ、現在の日本刀の原型に進化しました。

剣術のスタイルも、当初は片手で持っていたのが、平安時代中期に入ると、刀身の長さに合わせて柄も長くなり、片手持ちから両手持ちへと変わり、より高い殺傷能力を可能にしました。この頃には、剣法と言われる刀で殺傷する技術が確立されたといえます。

さらに平安時代後期になると、京八流という剣法が京都で発祥します。これは鬼一法眼という天狗が鞍馬寺の八人の僧に教えたと言われていて、源義経も鞍馬で修行中に鬼一法眼から剣を学んだという伝説があります。

この関東七流と京八流が、後の多くの剣術流派の母体となっていくわけですが、そもそも剣術は神官と僧のものであって、武家は剣術を重要のものと考えていませんでした。その理由として当時の戦術として弓術と馬術が最重要視されていたようです。

しかし鎌倉幕府が衰退を始めると、薙刀や太刀を主武器とする騎兵が出現するようになりますが、これは元寇での戦いの影響も少なからずあったと感じています。

南北朝時代には、「笑切・袈裟切・雷切・車切・片手打・払切・撫切・下切・立割・梨子切・竹割」
という太刀打ちの基本形が太平記の記述に見られ、甲冑による防御性が発達したため、この頃の主な戦闘方法であった白兵戦においては、兜を叩き割る頭部への打撃が多くなったことから、内側に浮張(うけばり)と呼ばれる緩衝材を設けしっかり固定するようになり、兜の着用法にも変化が見られます。

抜刀術

室町、戦国時代になると、日常的に戦が起こっていたため平時でも武士や僧侶以外の民衆も武装するようになりました。さらに目・首・脇の下・金的・内腿・手首といった鎧の隙間となっている部位を狙うような戦法の変化も発生してきたので、それとともに剣術も変化してきました

その後、安土桃山時代に、全国統一による刀狩りが行われます。刀の帯刀は武士にのみ許されるようになります。そして江戸時代になると長く平和の時代が訪れることで、剣術は大きな発展を遂げて700百の流派があったと言われています。

さらにこの頃から徳川家康の命により、それまでの武士道とは異なる儒教を軸とした新しい「武士道」が全国に広められ、禅など心法・精神鍛錬に重きを置く流派もでてきました。そして、死傷者がでるような木刀での立ち合い(試合)は幕府によって禁止され、約束動作の形稽古が中心となります。幕末になると安全性が確保されるよう竹刀と防具が発明され、技を試し合うようになり、非武士階級である、農民や町人も剣術を学ぶようになったと言われています。

と、ここまでが、古代からの剣術の歴史なのですが、言い伝えもあるので、事実かどうかは正直わからない部分もあるとはいえ、剣術は時代と共に変化していったのは間違いありません。そして、戦の時代によって進化してきた殺傷法から、礼法、禅など自己鍛錬へ重きをおいた剣道へと進化してきたのも事実です。

剣道場の子供たち

さて、平成が終わり令和へと新たな時代において、剣道は今後どのように変化していくのでしょうか。

今までの歴史や文化をしっかり受け止めながら、新たな新時代へ世界中に「剣道」が広まってくれればと切に願います。

参考)日本書紀、ウィキペディア