ご存じの通り、2019年4月から働き方改革が順次施行され、残業時間や有給休暇の仕組みが変わろうとし、さらに副業も解禁になるということが盛り込まれていました。
随時我々企業は、ガイドラインに沿って遵守していく体制を整えて行かねばいけないのですが、ふと、武士が治めていた時代にはどのような働き方だったのだろうか?という疑問が湧きました。
そこで、今日は「武士の時代はどのような労働状況だったのか?」、「現代とはどう違うのか?」と言った視点で、その時代の労働と休暇について記事にしてみたいと思います。
休みという概念は明治時代から始まった
日本でいわゆる「休み」という概念は、明治時代に入ってからで比較的新しい習慣です。江戸時代までは、そもそも一週間という概念がなかったので、休みはありませんでした。つまり年中無休だったようです。
明治9年(1876年)になると、正式に日曜を休みとしたのですが、これは、西洋とビジネスや外交を始めたためことが大きなきっかけとなりました。というのも、日曜日に外交や商売の話をしようとしても、西洋側の担当者が休みなのでそれに合わせざるを得なかったということです。実際に国民の多くが日曜日に休めるようになったのは、大正8年(1919年)になってからというのでここ100年といったところです。
武士の働き方は週休5日?
士農工商でいう、農、工、商とは違って武士の場合は、年中無休ではなく、働き方が少し異なっていたようです。
武士の位によって若干の違いはあったようですが、城の護衛や雑務に従事する武士たちを例にあげてみると、なんと週休5日で勤務していたというのです。
つまり1週間でたった2日しか仕事をしなかったという羨ましい形態になります。「三日勤め」と呼ばれる勤務形態なのですが、これは当番一日に対して非番が二日のサイクルで公務をおこなうものです。このサイクルだと30日のうち、勤務が10日で休みが20日、まさに週休5日になります。
過労死などが問題になっている現代からすると、週休5日しか働かないというのは考えられませんが、勤務時間も、10時から13時、長くても4時間程度と言われています。
ところが、このような短い労働時間の給金では、十分に食べていくことができないという下級武士層が多かったというのが実際だったようです。では、いったい彼らはどのようにして生計を立てていたのでしょうか?
武士も副業をしていた!
今の働き方改革では、副業は解禁となりますが、江戸時代ではほとんどの下級武士は副業をしていました。
下級武士の場合、給金は「三両一人扶持」と言われ、一年間でもらえるのは現金三両とお米5俵ということです。これを現在の貨幣価値に換算すると、40万円弱ということになるので、年収40万円、つまり月収になおすと月34000円ほどになります。さすがにこれだけでは生活できないので、彼らはどうしたかというと内職に励んだのです。
下級武士の内職というと、時代劇などで傘張りをするシーンを見ますが、それ以外にも鈴虫やコオロギの養殖をしたり、房楊枝を作ったり、提灯や凧を作ったりとさまざまな内職が行われていたようです。
「三両一人扶持」の下級武士たちにとっては、むしろ休日のほうが大変だったのかもしれません。
武士も楽しみたい!
そんな下級武士でもお金を使わずに余暇を過ごすこともあったようですが、その一番の人気スポットは神社だったようです。
神社に参拝しながら江戸を見物するという、今でいうところの街ブラだったようです。また湯屋、今でいう健康ランドのような施設で、暇つぶしやちょっとした社交の場としては人気があったようです。
神社は最近では御朱印なども人気んが今も昔も人気スポットになっています。
湯屋は本来、一般人が出入りする場所だったので、武士が足を運ぶような場所ではなかったはずなのですが、街ブラの合間に湯屋の2階でゴロゴロしたり、安い蕎麦をたしなんだりするのが彼らのひそかな楽しみだったようです。
一方で、下級ではなく、ある程度収入がある中級以上の武士、つまり幕臣クラスになるとどうだったのでしょうか?やはり中級クラスの武士ともなると、もちろん内職などせずとも悠々自適な生活を送ることができました。趣味や芸事に精を出したり、学問をして見分を広めたり、湯屋などでのんびりと余暇を過ごしたり、遊郭に入り浸っている武士などもいたようです。
いくら武士とはいえ、今も昔もあまり変わりはないのかもしれませんね。